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Documentaries as Gifts for Society

一体ドキュメンタリーとは、なんのために存在しているのだろうか?

それは字義通り記録のためか?感動をもたらす装置としての物語?或いはその双方?ーー私たちは世界中を駆け回って“真実“を探すべきなのか?けれど“真実“は追えば追うほど逃げていくし、すべてを語り尽くすことなど人には到底出来やしない。ーー私たちはあらゆる物事の「良し悪し」を裁定するべきなのか?誰かに肩入れして、他の誰かを否定するべきなのか?不義不正を暴く正義の鉄槌となるべきか?ーー救われぬ弱者をひたすら慰撫するべきか?ーー或いは難しい話は抜きにして、可愛らしい小話や、笑えるゴシップの類を作るべきか?…流行りに過剰に迎合する必要はないが、つまらなければ誰にも見向きすらされないだろう? ーーよく言われるように作者が壁のシミのように存在感を消せるなら、それにこしたことはない。だが、「絶対的な客観」などありえない以上、いっそのこと作者の自己表現をどこまでも追求してみたらどうか?……。

あらゆる表現様式と同じく、映像もまた社会と無関係ではいられない。それがドキュメンタリーなら尚更そうだ。私たちは本質を直視して、肚を括ってこう言ってみることにする。ーードキュメンタリーとは、社会へのギフトとなるために存在するのだと。「ギフト」とは、人々が自分で何かを考え、自分自身と社会とをポジティブに進化させていくための材料の詰め合わせのようなものだ。それはひとつの贈り物であり、恩恵でもある。まるで未だ見ぬ孫の代へと向け木を植える風変わりな杣人のように、私たちは愚直に、そして一徹に、社会に向けてギフトを作る。長編映画だろうと短いコマーシャルだろうと、その精神が貫かれているものを私たちは「作品」と呼び、そういうものを作る人間を「作家」と呼ぶ。

夢見がちな私たちが作りたいのは、「社会へのギフト」というパッションが充填されたバトンだ。バトンはバトンである以上、次へとつながれていかねばならない。だから私たちは種を蒔き、新しい「作家」を育て、愚直に、そして一徹に、人から人へとバトンをつなぐ。作り出すギフトに、一片の価値があると信じて。

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